History | SP忠男オリジナルマフラー

SP忠男 HOME > History

History

1945-1958

1945年 誕生

2月19日、東京にて6人兄弟の末っ子として生まれる。

1951年 6歳

楽しいはずの小学校入学、身体検査で小児結核を告げられ1学期を丸々休む。
それからは苦しい闘病生活が始まり、毎日医者通い。注射を見て泣き出す子も多いこの歳にも関わらず、ストレプトマイシン を通算160本、その他にペニシリンなどを打たれ、さらに定期的に保健所での気胸(肋骨の間へ太い針を刺し直接肺に空気 を入れる)などの苦しい治療を繰り返す。

1953年 8歳

兄の乗っていたトーハツの80ccバイクに乗せてもらい、早くもモータースポーツに目覚める。

1958-1959

1959年 14歳

原付免許取得。早速、スズキの原動機付き自転車パワーフリーを手に入れ、近所の空き地を乗り回す。この頃、最後の浅間 火山レースを観戦。なんと兄と二人乗りで浅間まで…。

やがて、「高校に入って卒業したらオートバイを買ってやる」という親心に、「3年間も我慢できない…!」と、中学卒業 後家業を手伝い、すぐに山口の50ccのオートペットを新車で手に入れる。
仕事以外はオートバイ一色。仲間達とのモトクロスごっこが、一番の楽しみになっていた。

1960-1961

1960年 15歳

初めてモトクロスレースに参戦。
マシンは山口のオートペットでタイヤもノーマル。
並み居るワークスライダーにかなうはずもなく、結果は見事予選落ち。

1961年 16歳

姉に借金してトーハツランペットを購入。当時5万8千円。(そのときの忠男少年の月給は8千円)だが、さすがにタイヤ までは買えず、アップハンドルにしただけで再びモトクロスレースに出場。
そしてなんと、2戦目にして初優勝を果たす。快挙を成し遂げ、一躍注目の的に。

だが、兄から「レースは金がかかるからやめろ」と言われ、かわりにYDS-2を手に入れ一時はレースを断念。
それでもやはりモトクロスからは離れられなかった…。

1962-1963

1962年 17歳

一時あきらめかけていたレースを再び始める。
千葉のスピードスクランブル・レースにヤマハYDS250で参加し優勝。最年少者を受ける。

1963年 18歳

トーハツから「TR250」という工場レーサーに乗せてくれるという話が入り、チームを移籍。

1964-1965

1964年 19歳

野口種晴氏に呼ばれ、ヤマハセミワークスライダーとして全日本モトクロス選手権で活躍。
豪快な走りで数々の好成績を収め、またまた注目の的に。

1965年 20歳

ヤマハワークスライダーとしてYDSベースのモトクロッサーで各地のレースに参戦。
葉山のレースでは90cc・125cc・250cc・オープンクラスと、なんと4クラス制覇を成し遂げ、一躍脚光を浴び る。

1966-1968

1966年 21歳

出場する殆どのレースで優勝。破竹の快進撃を続ける。
この頃から、自らヘルメットに目玉マークを描き入れている。
当初は、もちろん現在の様な 皆に愛されるトレードマークになるとは夢にも思っていなかっただろう。
「目立つように・・・」という意図だったようだ。

1967年22歳

ヤマハのニュー・モトクロッサー、YX26を駆りデビュー戦の郡山モトクロス日本GPにて優勝。

1969

1969年 24歳

DT-1ベースのマシンで参戦。それまではメーカーの都合で欠場するレースも多かったが、この年初めて全戦に出場し持 てる力の全てを注ぎ込んだ。
そして見事、全日本モトクロス選手権シリーズ250クラス年間チャンピオンに輝く。(125クラスでもランキング2位)  さらに、日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)最優秀選手にも選ばれる。
そしてさらに、現夫人・寿美子さんと結婚。

人生至福の時の様に思えるが、実際はそれほど華やかではなかったらしい。
レーサーだけではなく、家の仕事との二足の草鞋状態。仕事が終わると夜行でヤマハへ行き、レースが終わると帰って仕事を していたという。「そうじゃないと、レースをやらせてくれなかった。」

1970

1970年 25歳

MFJ最優秀選手として、世界選手権モトクロスに参戦。
世界の強豪が迎え撃つヨーロッパでレースを戦う。インターナショナルロードレースオランダ戦日本人初優勝。
おまけに日本でも、全日本モトクロス選手権第4戦 125cc・250cc・オープンクラスの3クラス優勝を果たす。
二輪専門誌にも多く取り上げられるようになっていたこの頃から、試乗記などの執筆活動もし始め、レースにメディアにと忙 しく活躍していた。
オランダ戦で調子づき、次のイギリス戦(ブリストル)でも良い所を見せ様と豪快に走ったのだが、自分のマシンに逆に乗ら れてしまい転倒! 首の第7番目の骨を圧迫骨折。怪我はかなりの重症で、医者は「手術の必要がある」と言い、選手生命もこれで終わりか・・・と思われたが、手術もせずに1ヶ 月で退院してしまう。

1971-1974

1971年 26歳

8ヶ月間のブランクの後、レースを再開。復帰第一戦の全日本モトクロス選手権第6戦125クラスで優勝。
再び契約ライダーにもどりモトクロスに復帰を果たす。
しかし、ニューマシンテスト走行中のアクシデントで足のじん帯断裂の負傷を負う。

1972年 27歳

再度負傷から立ち直り、レースに復帰するも転倒時の首の骨折が仇となり偏頭痛や数々の後遺症に悩まされ、思うように レースが出来ない。やはり、以前の様に豪快に戦える体ではなくなっていたのだ。

1973年 28歳

ヤマハのニューマシンOWを駆る。全日本戦の秋田で優勝。

1974年 29歳

ヤマハ契約ライダーとして、中南米を中心とした海外でのマシンテストやレースが多くなる。
だが、なんとこの頃まで、レースと家の仕事との二足の草鞋を続けていた。

1976

1976年 31歳

モトクロスレースでの活躍やマシン開発で蓄積してきた経験とノウハウをもとにして、愛妻とスタッフの3人で「スペシャ ルパーツ忠男」を開店。
開店を期に、67年頃から目立つようにと自ら書き込んでいた、忠さんのトレードマークの目玉のイラストを、GKデザイン のデザイナーにフィニッシュしてもらい、この時から店のトレードマークにした。
今では、「SP忠男」=「目玉のマーク」と、誰もがイメージする様になったが、目玉マークと忠さんとのつきあいは、開店 よりずっと古く、まさに忠さんそのものを意味するものだったのだ。

1977

1977年 32歳

有限会社スペシャルパーツ忠男設立!当時流行のモンキーやミニトレ用のパーツ販売を開始。
スペシャルパーツの名の通り、パーツ販売がメインとなるにつれ、業績もどんどん上がっていく。
ところで、マフラーに最初にブランド名を付けたのは何を隠そう我らが忠さん。「SP忠男」のマフラーを装着したマシンで の走りのフィーリングを、ライダーに、よりダイレクトにイメージしてもらう為だ。

1978

1978年 33歳

SP忠男レーシングチームを設立。
千葉にレーシングサービスの拠点を構え、ロードレースへのエントリーを開始。多くのライダーを輩出している。

1979

1979年 34歳

業績の伸びとともに、より多くのライダーが集う上野に「SP忠男」上野店をオープン。 だがオープン時、忠さんは「キリマジャロをバイクで登る!」という雑誌の企画で、風間氏・賀曽利氏・カメラマンと共にバ イクでの登頂にチャレンジ中。なんとアフリカにいたのだ「SP忠男」の事務系の事柄は、ほとんど賢妻「寿美子夫人」にま かせていたという。こんなワイルドなチャレンジが出来るのも、内助の功のなせる技というわけだ。

忠さんより ~
「時期が遅れて、キリマンジャロは既に雨季に入って路面はすべりマシンに乗って登るなんて生易しいもんじゃなかった。殆 どが押し上げる状態。最初は軽い気持ちで水やガスを持っているポータ達を先に行かせてしまったが、おかげで飲まず食わず で8時間、ひたすらマシンを押しげた。キリマンジャロは国立公園、バイクを入れる事さえ出来ない所を内緒で入山。夜の キャンプで自動小銃を持った人達に山狩りされ、我々は見つからない様に隠れていた。もし見つかって殺されても、登っては いけない所を登っているのだからしょうがなかったかも・・・・!?今考えると恐ろしいことだ。でも、山の上から見た景色 は、生涯忘れられない素晴らしいものだった・・・。」

1980

1980年 35歳

「SP忠男」横浜店オープン。より本格的にロードレースに参戦し、現在までに世界でも注目を浴びるトップエントラント として、数々の優秀なライダーを輩出している。
ミレニアムを迎えた「スペシャルパーツ忠男」は、現在羽田本店、上野店、横浜店、千葉店の、計4店舗で稼働中。マフラー をメインにオリジナルラインナップを充実させている。
忠さん曰く、「ウチはマフラー屋。マフラーには自信がある」とのこと。4ブランド・200種のマフラーと暖かいスタッフ が、日々、ライダー達を迎えている。

ページトップへ
  • SP 忠男 上野店
  • 〒110-0014 東京都台東区北上野1-7-5
  • 平日 10:00~19:00  土日曜/祝日 9:30~18:00
    定休日 毎週水曜日 第三火曜日